昭和50年02月08日 朝の御理解



 御理解 第46節
 「痛いのが治ったので有難いのではない。何時もまめなが有難いのぞ。」

 何時もまめなのがあり難い。平穏無事であると言う事があり難い。痛いのが治った。困った事がおかげ頂いた。助からんはずのものが奇跡的に助かった是もあり難い。けれども、そう言う事ではない。そう言う願いをせんで済む程しにいうなら平穏無事であると言う時程実は有難いのだと。だからその有難いを目指し、その有難いを頂こうという信心の姿勢を作らなければ有難くなれません。ね。
 平穏無事な時には信心すらが地に落ちてしまう。そして何かが起こって来ると慌てて神様と言った様な事ではおかげは受けられない。私はこの四十六節の御理解は日々が、何時もがお徳を受けるチャンスだと。それは所謂何時もまめなのが有難いという信心を頂いて行く事によて、確実にお徳を積んで行く事が出来る。私はこの四十六節と言う事は、何時もお徳が受けられると言う風に頂くです。四十と言う事は何時も。六と言う事はお徳です。録を食むというでしょう。百万石のとか、ね。
 何十万石とかと言うでしょう昔の。あれを禄というです。禄はそのまま徳だと。だからお徳というのは日々頂けれるチャンスがあるんだと。それはね例えば何か難儀な問題がある。一修行をする。それによって力を受ける。そう言う風にもありますけれども、実を言うたらね、何時もまめなのが有難いと言う信心。此れは愈々何時もまめなと言う事は、自分の心そのものが、何時も健全でなからなければならないと言う事なんです。自分の心が何時も健全である。
 その健全な心で教えを頂き教えを守る。もうここに喜びの受けられないはずがないです。ね。その喜びが積もり積もって徳になるのです。だからお徳を受けるというのはそう言う、ね。有り難い楽しゅう受けられるお徳でならなけりゃいけんと思うです。そこで先ず、心の健全を願わなければなりません。ちょっとした事にも不安になる。ちょっとした事にも腹が立つ。此れは不健全の証拠です。体が健康でありますとです、どういう物を食べても障らない。
 障る所か愈々それによって、それが血になり肉になりて、愈々健全を増して行く様に、心の健全も同じ事。人は悲しんでおるけれども、人は悩んで受ける。人は腹立ちで受ける。ね。そういう例えば中を、自分の心が健全でありますと、一切が御事柄として成り行きを大切にさせて頂くと言う様な有難く受ける姿勢が出来ますから、愈々健全な心は愈々健全を増して行くです。ね。
 そういう健全な心で、日に日に御教えを頂いてその御教えが、一日の支えになって来る。もう是なら有難くなるまいと思うたっちゃ、神様の方が有難いものを下さるです。信心する者は何事にも信心になれよと。その時にいっちょ信心にならにゃと言うのじゃー駄目です。心が何時も健全である有難いと言う事になれば言うておる事しておる事が生き生きとして、信心になっておるです。
 私は毎日此処でこうしてお取次をさせて頂いて、合楽の是は独壇場と言う位に思われる位にですね、皆さんが本当に実感を持って有難い勿体無いを体験しておられる、その有難い勿体無いをです、此処で御届けをされる事です。もう本当にお取次させて頂く者の、冥利是に尽きると思う位にあり難いです。それを受ける時に。もう今日此の様にお使い回しを頂いて有り難う御座いますとか、ね。もう例えば昨日一日なら昨日一日の様々な事柄を信心で受けて行く。
 所謂何事も信心になれよと仰るが、信心で受けて行く。そして教えをそこに、教えが支えになっておる。そこからは次に生まれて来る所の喜び体験。それが又愈々嫌が上にも有難くなって行くと言う訳。まあ例えば昨日一日この、合楽からお参りになっておる方達の御届けを聞いて貰っても、それが感じられるです。そこの久保山さん、先日あの信心のない妹さんから電話が掛かって来た。姉さん本当にあんたに聞いて貰わんならん事がある。何かその悩みを訴えたいと言う事だったらしいけれども、ね、
 私が聞いてやったからというて、おかげになる訳じゃなから、御神意を頂いて、やらせて頂くものならば、やらせて頂こう。又こちらから祈っておるだけでは何もならん、祈らせて頂くというお届けがありました。久保山さんも示現活動と思うて行きなさいと私は申しました。成程あちらの話を聞くとです、妹さんの話を聞かせて貰うと信心のない妹にとっては、そうもあろうと思うたけれども。
 私ならば信心をさせて貰うて信心で頂くならばこういう頂き方が本当じゃなかのというて、お話をしておる内に、自分が感動して来た。妹さんも感動して来なさった。そこに問題が無くなった、いや本当に聞いて貰うてあれ是思とったけれども、そうではない、自分自身の方にその問題はあったと言う事が分からせて頂いて、もう妹もおかげ頂きましたけれども、やらせて頂いた私も有難かったというのです。
 帰ってお風呂に入らせて頂いておったら、風呂の中で金光様有難う御座います、親先生有難う御座いますと申し上げた声が、嗚咽が出て来た。有難うして有難うして、何処からこの有難いものが、頂けれるのだろう。何処からこの有難いものはやって来るのだろうと思う位に有難たかったという御届けをしておられる。 久保山さんの場合は日々です、もうその代わりにもう、毎日の朝の御届けが今日も、どうぞ成り行きを大切にさせて下さいと言う事です。ね。
 段々健全な心になって行く、その健全な心でです、今日もいよいよ本気で成り行きを大事にさせて下さいと言う事に取り組むもんですから、毎日毎日有り難くなって行かんはずがない、その有り難くなって行くと言う事がです、そのまま徳になる。最近はもう、本当にもうそれは素晴らしい御教えをお知らせを頂かれます。是はそこの合楽食堂の中村さんですけれども、昨日のお届けに先日の偲び草の、五十日祭の偲び草の色紙を皆さんに差し上げましたですね。
 それを頂いて帰ってから、自分所の御神前にお供えをし、御霊様にもその事をお届けさせて貰うて、あの内容の所のお歌を繰り返し読ませて頂いておったら、もう有難うして有難うして、神様の喜びがこちらに帰って来るのだろうか、御霊の喜びがこちらへ帰って来るのだろうかというごと有難かったというのです。親先生も昨日一日本当に例えば、是は昨日の事。ね。本当にあの朝の御理解を元にして一日を過ごさせて頂いたら、もう思いも掛けない、商いのおかげも頂くし、思い掛けないおかげになって行く。
 もう兎に角教えを守らせてさえ頂けばというそういう気持ちで昨日もお参りをした、お参りをさせて頂いて、偲び草の色紙を頂いた。その色紙を神様にお供えさせて頂いて、有難し只、有難し。有難し。我が身一人は元の身にしてと繰り返しご神前で読ませて貰う、御霊前でそれを唱えさせて頂いておったら、どこからそれこそ、湧いて来るか分からん有り難さであった。そこへ丁度、中村せつさん合楽会の会長しておられます、おばあちゃんですけれども、うちへみえられた。
 お父さんおるのと私は今日はあんたばっかり聞いて貰いよって、信心の無か者んに言うたっちゃ分からんけん、もうちょいとこげな有り難い事があるじゃろうかというて、その見えたち。話を聞くと成程有難い事つくめである。二十歳位のものには、親先生が沢山おる中に、中村さんこっち側においでとその手招きをして下さった、今朝からお夢を頂いてまあ本当に金光様の信心ちゃなんち、有り難い信心じゃろかのというてそれこそ、ね。喜びに嗚咽が出る程の有難い、有難いを思うておる所にです、ね。
 又喜びの花がそれに伴う様に、喜びが重なって行く。私がいかに中村さんが日々その教えに本気で取り組んでおられるかと言う事を感じます。是はも絶対です。愈々自分の心の健全な心を願わせて頂く。言うならば今日もどうぞ、成り行きを大事にさせて下さいと言った様な信心、心の状態でです、そして本気で今日のご理解を守らせて頂こうという真剣な態度に出るならばですもう絶対に、有難いものは、是はもう神様の交換条件です。ですから何処から湧いて来るか分からん。
 何処からこの喜びがやって来るか分からんけれども、有難い。私は何が一番幸せかと言ってもどういう中にあっても涙がこぼれる程に有難いという時が人間の一番幸福だと思うのです。またそう言う心の状態におかげが伴いはずも又絶対にありません。ね。是は昨日、宮崎から手紙が来ました。福岡の戎浦のお母さんです。もうやんがて八十になるでしょうかね。その御婆ちゃんが、何日おきにか手紙が来ます。親先生毎日のお祈り有り難う御座います。厚く御礼申し上げます。
 私も元気にて合楽の示現活動と思わせて頂き、親先生のお徳を、宮崎の人に分かって頂きたいと思わせて頂き、夜昼問わず、回らせて頂いております。皆さん大変喜ばれ、是非お参りさせて頂きたいと言って下さいと、有難い事だと合楽の方に向かって親先生に御礼させて頂き、又毎日四時になりますと、今合楽では親先生がお神様に、お神様の御前にてお祈りしていて下さると思いますればのんびり休んではおられません。そんな気持ちでお祈りさせて頂きますれば親先生のお顔が目の前に一杯に見えて参ります。
 本当に有難くて有難くてなりません。難しい事ばっかりのお願いばかりで御心配おかけ致して申し訳ありません。まだ他に二枚こうして色々な御礼やら御願いやらしてある。自分が示現活動に回られる所の病人さんの事の願いやら、難儀な問題のその事やらをお取次願われるんです。有難うして有難うしてなりません。それには例えばそういう七十幾つかのお婆さんが信心に向かって、神様に向かって、向かっておられる姿勢が成る程、是なら有難くなれるはずだと言う事になるのです。
 四時になったらもう親先生が御神前に出ておられると思うたら、ね、ゆっくり休んじゃーおられません。合楽示現活動と思うて難儀な人の所へ、回らせて頂いておりますと。ね。是ならばです、成る程有難うして有難うしてという心が、通うて来ないはずはない。頂けないはずはないです。私結局信心とは有難烏ならせて頂く稽古なのですから、ね、是ならば何時もまめな健康も約束されるでしょうし、心が何時も健全です。ですから何時もまめなのが有難いというのはです。
 所謂健全な心で御教えを頂いてその御教えを行じる所からです、ね、有難い有難いという心が生まれて来るのだと思います。ね。御願いせんならん御願いが成就した。そん時は嬉しかった、ね。もう二十何年合楽にお参りしておる方があります。この頃所謂目が薄うなって行かれます。先日も敬親会にお参りして来てから、私に親先生私の目はどうしてこげん薄なったじゃろうかち。お話を聞くと此の頃まだ此処に合楽に対して、何回もお参りもなさらん様なお爺さん達がね、底脾で目がもう見えんごとなりよる。
 親先生に御届けをしたら手術をせずにおかげを頂けと言わっしゃったから、医者に行くのを止めて御願いし御座ったげなら、ね、目が見えるごとなってテレビが見える様になったという話を聞かせて頂いて、私は二十何年も参りよるとにどうして治らんじゃろうかというて、あの私に言われる。ね。その方は御願いをしておる内に段々見えなくなってしまったんです。ね。そして見えなくなったその時点から今度は見えるごとなったのが、はっきりした有難い目でした。
 だからよっぽど私はあんたも一遍目が潰れてしまうとそこからおかげを頂くばいと言おうと思うたばってん、それではあんまりひどかろうと思うてからね、はあ一生懸命御願いせにゃでけんがのと。そりゃ奇跡、信心も無しに現れるおかげを最近の合楽では非常にそれが多い。奇跡が多い。それは信心を出来けんなり、せんなりに頂くおかげだから奇跡なんです。あんただんそういう奇跡じゃなくて、もうあんた自身の信心でおかげ頂かなければいかんよと。その信心とは今日皆さんに聞いて頂く様に、ね、
 幾ら合楽にもう何十年お参りをしておるからと言うてもです、今日私が申します様な有難いという積み重ねて行く様な信心からしか、おかげにはなって来ませんです。先ず自分の健全な心を願わなければいかん。しかもその健全な心で教えを頂かにゃいかん。お参りをして来て、教えを頂く事もしない。ね。こげな馬鹿らしい話は、あるだろうかという話はあるけれども、お参りをしてお願いをして、つうと帰ってしまう。そんな事で合楽に参る値打ちはないです。ね。
 お話を頂いてそしてそのお話を本気で頂いて帰って、日常生活の上に表して、合楽で是程示現活動示現活動と言われるから、ね、そう言う事に何時も心を向けさせて頂いての私は信心、日常生活になって来る時にです、四十六節と何時もお徳を受けるチャンスはあるのだと。ね。喜びに喜びの花が咲いて何処からこの喜びが湧いて来るかと言う様なおかげが頂けれるんだ。そこに信心が愈々楽しい、こよない有り難いものになって来るのだ。私はどうしてもその、願い願いがその願わにゃおられませんから。
 その願いもしましょうけれども、願いと同時にです、神様の願いも分からにゃならんと思うです。神様が私に何を願って御座るから。願いと言う事はそれはそのまま神様を手足に使おうとしておる様な事で。そこで神様の願いを願いとすると言う事は神様のいうならば手足にでもならせて頂こうという、そういう生き方にならなければ本当の信心の喜びには触れられない。どういう難儀、どういう苦しい時でもです、言うなら信心の喜びは頂けれる。おかげの喜びはそれっきり。信心の喜びは限りがない。
 そういう限りない喜びに触れて行くという一つ、開眼しなければいけません。為には先ず教えを頂く事です。それを守る事です。そして行じる事です。ね。其処からです、私は痛いの治ったと言う事はおかげを頂くと言う事でしょう。おかげを頂いて有り難いというのです。是は言うならば束の間の有難さです。何時もまめなのが有難いのぞと言う事が分かる事の為の今日はお話を聞いて頂いた。何時もまめなのが有難いのだというおかげを頂かせて頂く為には心が健全でなからなければならないと同時に。
 教えを受けなければならない。その教えを本気で行じなければならない。そこから信心の喜びに触れる事が出来る。信心するものは何事にも信心になれよと。只何事にも信心になろうと勤めただけでは、その勤める事がきつうなります。けれども心の中に喜びがいっぱいであり、心の中のいうならば心が健全であればです、真心にならなければおられない。何事も信心にならなければ居られない、そこに本当の信心生活がある訳です。どうぞ一つ何時もまめなのが有難いのだと言う事は、話を聞きゃすぐ分かるです。
 ほんなこそうどこじゃないとすぐ分かるでしょうが。けれどもそれを分かっただけではどうにもならんのです。その何時もまめなのが有難いと分からなければ。その有難いもこの有難いが何処から湧いて来るのだろう、何処からやって来るのだろうと思われるくらいな有難いでなからなければ、何事にも信心になる事が出来んのです。ね。為の今日は御教え御座いましたね。
   どうぞ。